TAKAOSHIRAISHI DIARY

四国松山で建築設計事務所を主宰している建築士の日記です。設計事務所の経営のことや、旅先で出会った建築・街のについて記しています。

イギリス旅行記② ロンドンの都市の変遷:セント・ポール大聖堂とエステート

前回の記事はこちら。

イギリス旅行記① ブライトン・アンド・ホヴ

 

ロンドン。政治・経済・文化など様々な指標で世界有数の大都市であることは言うまでもないが、私にとっても、多感な時期に音楽・ファッション・建築・アートなど様々な文化を与えてくれた、そうした情報の発信源。そんな都市をようやく訪れることができたのは感慨深いものがあった。

こども二人を連れてのロンドンは大変な場面も多かったが、その分、街の優しさや多様性に触れる機会にも恵まれた。通りすがりの人々が手を貸してくれたり、お店のスタッフが気遣ってくれたりと、子連れでの海外旅行に対する不安を和らげてくれる瞬間がたくさんあった。おかげで、親子共々、思い出深い旅となった。

このようにロンドンについては多様な観点で学びがあり思い出ができたのだが、今回はそのようなロンドンの都市の変遷や特徴について、実際に訪れた感想を交えて整理をしておきたい。

 

目次

 

クリストファー・レンの都市構想とセント・ポール大聖堂

セント・ポール大聖堂

 

ロンドンの都市史を語るうえで、1666年に起こったロンドン大火と、その復興を担った建築家クリストファー・レンは欠かせない。大火によってロンドン発祥の地であるシティの大部分が焼失した後、レンはセント・ポール大聖堂をはじめ数多くの建物を再建し、ロンドンに新しい都市景観の基礎を築いた。

 

セント・ポール大聖堂 南側から

しかし、レンの構想した都市計画は全体が実現したわけではない。
当時レンは、大火後のロンドンに、セント・ポール大聖堂と王立取引所を焦点として放射状の道路を配して広場をいくつも設けるという、パリやローマに見られるようなバロック式の壮大な都市計画を構想した。都市空間を劇的に演出しようとした計画からは、当時の理想主義的な都市像が垣間見える。しかし、現実には多数の地権者との権利調整が難航し、加えて商業の早期再開を望む声も強かったことから、合意形成ができないまま基本的に既存の街路を踏襲して復興が進められたというのが実情のようだ。レンの計画が実現していたならば、オスマンの取り組んだパリのような都市景観が実現しただろう。後述するが、ロンドンの都市景観は、そのようなドラマチック的な求心性にやや欠けると言わざるを得ない。

それでも、レンが1710年に再建を果たしたセント・ポール大聖堂の存在は特別であり、完成した大聖堂は巨大なドームを戴き、ロンドンのスカイラインに存在感を与えている。法規的には、この大聖堂周辺の建築物には高さ規制がなされているし(St. Paul's Heights)、例えば8キロ離れたグリニッジ公園などロンドンの主要なポイントからはドームが見えるように戦略的眺望(Strategic View)の保全がなされている。このあたりは、私の住み暮らす松山市における、松山城に関連する景観計画の下敷きとなったところでもあろう。ランドマーク性のある外観のみならず内部空間の荘厳さも見事で、ロンドンを象徴する建築物として、今も多くの人々を魅了し続けている。

セントポール大聖堂 内陣からドーム側



引用:The City of London Corporation "TALL BUILDINGS STUDY"

 

ロンドン大火の後に再建された老舗パブ

シティにある老舗パブ、Ye Olde Cheshire Cheese(ジ・オールド・チェシャー・チーズ)

フィッシュ・アンド・チップスなどをいただいた

子連れだったのでロンドンでのナイトライフはほぼおあずけだったが、それでも一軒だけシティの老舗パブ「ジ・オールド・チェシャー・チーズ」を訪れた*1。店名サインの下には"REBUILT1667"とあり、ロンドン大火(1666)の後に再建されたということを示している。

 

ロンドンの都市構造とエステー

ロンドンの街は18世紀から20世紀の建物がほとんどを占めるようだが、それらにガラスやコンクリートによる現代の建築を加え、それらの多様な建築物の積層する「折衷」が絶妙な調和を見せているように捉えられた。

これらの魅力的な建築についてはあらためて触れたいと思うが、その都市構造の下敷きとして、ロンドン特有の街の多様性を支えているのがエステーと呼ばれる土地所有の仕組みにあるように捉えられた。

ロンドンの周辺部や中心部の広大な土地は封建時代から複数の大地主により所有されており、この地所を独自の方針で開発や管理が進められてきた。こうして開発されたまとまりをエステートと呼ぶ。各エステートは自らの地所の価値を長期的に高めることを目指して、広場や下水、道路といった都市基盤を建設し、賃貸住宅や店舗を配置する手法で街づくりを行ってきた。

いわばロンドンの地主たちこそがこの街の“オーナー”と言えそうだが、このような形態は現代まで続いており、エステートの開発手法には短期的な利益を追求するのではなく、地所全体の価値を長期的に向上させるという考え方が根付いているようだ。各エステートは自らの敷地ごとに特徴的な広場を設け、その周辺に住居や商業施設を配置してエリアの魅力を高めてきた。

ただ、先に述べたレンの計画が実現しなかったように、それぞれのエリアには広場や特徴的な街路があるとしても、それらの広場と広場が一貫して繋がっているわけではないため、エリアごとに独立した印象を受ける。しかし、こうしたばらばらに開発された「小さな街並みの単位」の連続体こそが、ロンドンを歩く楽しさであり、多様で個性的な景観を形づくっているのだと、実際に街を歩いて実感した。


ブルームズベリー

実際に訪れたエステートの計画事例を挙げておきたい。ブルームズベリーは(本格的には)18世紀末からベッドフォードエステートにより開発された文教地区である。広場や庭園と組み合わせて建物が開発されており、現在も同エステートにより管理されているようだ。

計画としては、地域全体にラッセルスクエアやベッドフォードスクエアといった広場や庭園を散在させ、その周囲に中層の邸宅をまとめるといったもの(ガーデンスクエア方式)。

ブルームズベリーでは大英博物館を訪れ、そして近接するホテルでのアフタヌーンティーを楽しんだ。ホテルの入居する建物は建物間の壁を共有するタウンハウスであり、芝を植えた中庭を囲み、落ち着いた環境を創出していた。

 

モンタギュー・ストリート

大英博物館の東側、モンタギューストリートのタウンハウスの街並み。ロンドンにはレンガの建物が多く見られるが、茶系のレンガはストックブリックと呼ばれるもので、18世紀のジョージ朝の建物であることが多いそう。写真の建物もジョージアン様式といっていいだろう。なお、赤レンガの建物の多くは19世紀のヴィクトリア朝のものであるようで、レンガの色によってある程度の建設年代が推定できる。ロンドンの街並みはこれらのレンガ建築による印象が強く残った。

リージェント・ストリート

リージェント・ストリート

商業エリアの開発という点で伝統的なエステート開発とは異なるかもしれないが、関連する都市改造の計画としてリージェント・ストリートを見てみたい。リージェント・ストリートはロンドンの目抜き通りのひとつで、多くのブランドが軒を連ねる。設計はジョン・ナッシュにより(1925)、土地・建物はイギリス王室の不動産を管理するクラウン・エステートの独占管理による。
リージェント・ストリートとオックスフォード・ストリートが交わるオックスフォード・サーカスの交差点も、建物の角は円形に隅切りされ、広場のような趣がある。リージェント・ストリートは途中で円弧を描き、ピカデリー・サーカスの広場に接続する。

ハムリーズ

リージェント・ストリートでは、子どもを連れてハムリーズ(ロンドン発の大型玩具店)を訪れたが、6階+B1階建てのビルのそれぞれのフロアで異なる分野のおもちゃを扱っていて、スタッフによるデモ実演も多く楽しかった。一緒に訪れた親戚にはおもちゃをたくさん買ってもらってしまった。

 

参考文献

*1:ちなみに事前予約して訪れたけど、子どももOKということでした。